太平洋を挟んで東通村を想う 〜佐々木航先生からの便り・前編〜

いろいろ

(今回は特別編です。2012年から2022年まで東通村診療所に勤められ、2014年からは白糠診療所所長も兼ねて当村の医療にご尽力され、多大なご貢献をされた佐々木航先生からの寄稿です。2回に分けて掲載します)

こんにちは。昨年まで東通村診療所で医師として勤めておりました、佐々木航です。濱近先生からの依頼を受けまして、私も1つ寄稿させていただきます。

とはいうものの、思い出が多すぎて何から話すべきか・・・。

【私が東通村に来て、そして離れるまで】
家庭医療専門医 (地域の第一線で幅広く診ることができることを約束する専門医の資格) を取得するためには半年以上の地方での地域医療研修が必要でした。当時私は東京の病院に所属していて、運営している法人である地域医療振興協会には20以上の地域医療研修施設があり、その中の1つである東通村診療所が私の研修先として選ばれました。

つまり、私が東通村診療所に赴任したのは地元とか親戚がいるとかではなく、偶然でした。2014年に専門医資格を取得しましたが、東通村診療所を気に入っていたことと、東京に戻りたくないという気持ちもあり、研修ではなく職員として東通村診療所に残る決断をしました。毎年10月に、残るべきか、去るべきかを考える機会を設けていましたが、「残る」が「去る」に勝ち続けました。

赴任して10年を1つの節目として、別の世界も見てみたいという気持ちがあり、協会から海外での研究活動の誘いもあり、7月末で診療所を離れ、10月から1年間、アメリカのオレゴン州で研究活動をすることになりました。6月頃から診療所を受診した患者さんに、私が診療所を離れることを伝えていましたが、7月中旬に私がCOVID-19に罹患してしまい、一部の患者さんには直接伝えることができなかったのが今でも心残りです。

【数え切れないほどの思い出が詰まった10年間】

治療により元気になった患者さんを見られたこと、「人生の最期に東通に戻ってこられて良かった」と患者さんの家族に言われたこと、訪問診療先で会った患者さんが、入院中の姿からは想像も付かないほど活き活きとしていたことなど、次々と良い記憶を挙げることができます。

苦しい記憶もあります。自分がもう少し早く行動すれば患者さんを助けられたのではないかという後悔、家族関係や経済的問題など医療の力では太刀打ちできない問題、COVID-19関連の診察で患者さんの行動履歴を聞かなければならなかったことなどです。また、私が赴任した頃に診察した小さな子供さんが10年の間に自分の身長を追い越していたり、患者さんを看取った妻あるいは夫に徐々に認知症が現れているのを見たときに、時が流れていることを強く感じました。

【村の医者としての矜持】

東通村診療所に来て驚いたのは、「■■地区の○○さんという方が、▲▲という病気で困っていて、車やバスを使えないので、相談員が対応しています」のように、住民の困りごとをすべて把握していて、受診するのを待つのではなく診療所から働きかけていることでした。受診したら終わり、退院したら終わりではなく、訪問診療や施設回診、デイケア、デイサービス、リハビリテーションなどでその後の様子を見ることができ、患者さんが亡くなっても家族の定期受診などで関わりを続けることができました。いつでも、どこでも、どんな問題でも対応し、村全体の健康に責任を持とうとする姿勢は、まさに私が幼い頃から思い描いていた「町(村)の医者」であり、このアイデンティティーを手放したくなかったから10年間ここで診療を続けられたのだと思っています。

後編はこちら☛ 【 太平洋を挟んで東通村を想う 〜佐々木航先生からの便り・後編〜

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